めちゃくちゃ胎界主だった。
※以下、ネタバレ注意
【普通に面白かった】
『ハウルの動く城』や『風立ちぬ』がいまいちな出来だったことから、私はもう宮崎駿のことを(言い方は悪いが)終わった人間だと思っていたのだが、この作品はきちんと面白かった。
近年の宮崎駿作品は、ぶつ切り、唐突な転換が多く、あまり作品に没頭できなかったのだが、今作は不条理な幻想世界が舞台だったことで、その悪癖が良い方に昇華されていた印象だ。
【事前情報なし】
それにしても、スラムダンクの映画は事前情報を伏せた意味がちゃんとあって、「なるほど、こう来たか」と唸らされたわけだが、この作品の場合は情報を隠す必要が皆無だったな。
本当にただ、「スラダンの成功にあやかって、とりあえずやってみた」だけという感じ。
いや、別にいいんだけど。
一応、作品の唯一の象徴だったアオサギが、醜い小男だったところには多少の意外性があったとはいえ、だから何だよという話だし。
【大叔父様=宮崎駿】
ってことだよね、どう考えても。
あの塔の中の世界が宮崎駿の作品群であり、またジブリそのものである、と。
大叔父様がかつて石の力を借り、理想の世界を目指して作ったあの塔の胎界は、実際には最初から歪を内包しており、時と共にその歪みは正しようもなく増幅していき、ついには悪意に汚染され、まがい物だらけの胎界へと成り果ててしまった。
だが、そんなまがい物の種をバラ撒いたのもまた、大叔父様自身でしかない。
自らの作品、そしてそれらから派生したジブリという存在に対する宮崎監督の自負と後悔が見えるようだった。
【後継者】
「大叔父様の血縁者しかこの世界の後継者になれない」という辺りはもう……ね。
吾朗……。
天から降って来たあの巨大な石が世界の根幹なわけだから、石とは宮崎駿の中にある表現者としての何かしらの『核』のメタファーなんだろう。
石との契約によって血縁者しか後継者にできないというのは、息子への世襲が、宮崎駿自身の意志や理性でもどうしようもない、表現者としての核が引き起こしたことだと言いたいわけだ。
だが、後継者に渡した石の欠片は、既に悪意に汚染されてしまっているものだった。
汚染された石を継いで塔を建てても、まがい物しか生み出せない。
その一方で、大叔父様は石に在る悪意に気付く人間にこそ、後継者になって欲しいと語っていた。
きっと吾朗は気が付くことができないまま、父親から石を受け取り、塔を建ててしまったのだろう。
【インコ】
塔の世界で大繁殖し、我が物顔で闊歩するあの醜悪なインコ達は、さしずめ我々視聴者であり、また、スタジオジブリの関係者たちと言ったところか。
インコ達は欲望のままに人間を食らい、大量に群れて、大叔父様の胎界に住まう胎界ブツに過ぎぬのに、図々しくも創造主たる大叔父様に自らの権利を要求する。
腐敗してしまった大叔父様の現在の胎界そのものと言える存在だ。
しかしながら、そんなインコ達も元はと言えば大叔父様が自らの手で塔の世界に持ち込んだのである。
本来、自然な存在だった彼らを、あのような醜悪な者どもに変えてしまったのもまた、大叔父様の作り出した世界なのだ。
【理想の主人公】
眞人はその名の通り、宮崎駿が理想とする人間だ。
彼は賢く、家族思いであり、情が深い。
そして、宮崎駿の後継者たるに相応しい資格を持ちながらも、それを断り、厳しい現実の世界へと帰っていく。
宮崎駿のアニメを見た記憶を、そっとポケットに忍ばせて。
だが、それも一生ではない。現実の中を生きる内に、アニメの記憶など薄れていき、やがては思い出すことも無くなるだろう。
それで良い。
いや、人間とは本来、そうあるべきだ。
宮崎監督がそう言っているのが、ありありと伝わってくる。
特に目新しいものではない。
というか、ありふれたよくある表現者から観客へのメッセージだ。
これは当然の話で、宮崎駿が求めているのが常識的な人間だからだろう。
観客に常識を求めれば、作品に込められたメッセージも常識的なところに落ち着いていく。
当たり前のことだ。
一方で、宮崎監督は自身の求めるそんな人間の在り方が、あくまでも理想に過ぎないことも理解している。
主人公の眞人は恵まれた人間だ。
戦時中から金持ちで、戦後も没落することのなかった息子想いの優しい父親のもとで産まれ、実の母こそ亡くしたものの、継母となったのは同じく心優しい叔母だった。
過酷な戦争の中で少年時代を生きながらも、飢えに苦しむことも戦火に追われることもなく過ごし、恵まれた家庭環境のまま、戦後の日本を歩んでいくことができる。
宮崎駿が理想とする人間は、そういった多くの幸運の中でようやく育まれることを、彼も自覚しているはずだ。
故に、宮崎監督が今作を通して「君たちも眞人のように生きなさい」と観客に求めているとは到底考え難い。
「眞人のように生きて欲しいけど……まあ、無理な話だわな」というのが結論だろう。
【君たちはどう生きるか】
題名になっているこの問いかけは、眞人ではなくむしろ、インコ達に向けられていると思われる。
つまりは、宮崎駿の新作だからといって初日から映画館に足を運び、週末の貴重な時間を費やしてまでその感想をネットに書き並べている、この我々に対して、である。
要するに宮崎監督はこう問うているわけだ。
「俺はもうすぐ死ぬし、それと共にジブリという世界も消えてなくなるけど、君たちはこれからどう生きていくつもりなの……?」
と。
無邪気な夏子さんは、塔の世界から外に這い出て元来の姿に戻ったインコ達のことを「可愛い」と言っていたが、彼らに待ち受ける運命は悲惨だ。
大叔父様の専有胎界で飛ぶ普通のインコ達を「ご先祖様」と呼んでいたことからしても、彼らは塔の世界で生まれ育ち、最初からあの醜悪な姿だった世代である。
空の飛び方も、餌の取り方も学んでいない。
そんなインコ達が突然、野生に帰されたわけだ。その大半が数日もしない内に死んでしまうことだろう。
大叔父様は自身の世界が歪んでいると言いながらも、その象徴たるインコ達に向ける視線はあくまでも優しかった。
(宮崎駿本人はあんな風には優しくないだろうが)宮崎監督が自身のファンやジブリの関係者たちに抱いている愛着が感じられる。
『君たちはどう生きるか』
だからこれは、説教ではない。
こういう風に生きろと、道を教え諭すものでもない。
「君たち、これから大丈夫なの……?」と、この厳しい現実の中に遺していくインコ達の今後に対する不安、心配が吐露されたものだったわけである。
【宣伝をしない選択】
そう考えると、先ほどは「事前情報を伏せたことに意味が無かった」と書いたが、少なくともプロデューサーたる鈴木敏夫にとっては意味のある行為だったのかもしれないな、と思い直した。
近年のジブリ作品は有名タレントを声優に起用し、積極的にテレビを使って宣伝してきた。
専門の声優ではない人間の「自然な演技」は確かに宮崎駿も求めていたであろうが、そういった有名人を使った宣伝手法まであの頑固ジジイが歓迎していたとはちょっと思えない。
自身の作品がそうして大衆化されたことも含めて、大叔父様の歪んだ胎界を描いていたのだろう。
そして、鈴木Pもまた、自身もプロデューサーとして大きく関わってきたジブリ作品を「理想的だったかつての宮崎作品に比べると、歪なアニメ」と自虐され、自身も含めたジブリの関係者が世界=作品を歪めてきたと今作で描かれていることは当然解っていたはずだ。
スラムダンクの成功を見て、これなら行けると思ったのは勿論あるだろうが、
「そこまで言うんならやってみろよテメェ。今回は全く宣伝しねェでおいてやるからよ、純粋に作品の力で大ヒットさせてみやがれ!」
という反抗の意味も、どこかにあったのかもしれない。
【その他】
・自分のアニメの業績を託したい一方で、子供達にはアニメの世界ではなく、厳しい現実世界を生きて欲しいという願い。
・ペリカンとムニムニ(だっけ?)はどう解釈すべきだろうな。
・ムニムニが自身が育てようとした若手アニメーターで、ペリカンは彼らを潰してきた諸々の要素、みたいな?
・しかし、新たな芽を摘むペリカンも、元は宮崎駿自身が連れてきたもので、そういう存在にしてしまったのも宮崎自身に他ならない。
・まさに宮崎駿の遺言そのものといった映画だった。
・一人の胎界主の終わりと、遺される胎界ブツ共の物語。
・あと、やたらリトルナイトメアっぽくなかった?
・いや、リトルナイトメアがそもそもジブリというか千と千尋っぽいんだけど、リトルナイトメアが逆輸入されてた気がする。
・まさかプレイしたんか? パヤオ。