一日一記事を自分に課しているのだけど、完全にネタ切れ。
日をまたいでしまったが、22日のうちにもう一本書けばいいことにしよう。
※以下、ネタバレはありません
まず、最初に女子バレーボール日本代表が五輪出場を決めたことに祝意を表したい。
こんな表題ではあるが、バレーボールという球技自体や、それを志した選手の方々を否定しているわけではないからだ。
私が否定しているのはあくまでも「バレーボールという球技を教育現場に持ち込むこと」である。
ただし、これは別に私がバレーボールを憎悪しているから書くのではない。純粋に日本の子供たちの未来を憂いているだけだ。
バレーボールという球技には、「サーブ」なる悪魔のルールがある。
これは、出場した選手が持ち回りで最初にボールを相手コートに入れるというもので、つまり、いかなる人間であろうと強制的に担当させられるのだ。
本日、視聴した女子オリンピック最終予選では、なぜか一度サーブを失敗したら即座に相手チームにサーブ権が移っていたが、我々が体育でやらされていたときには、サーブに失敗した場合、もう一度同じ人間がサーブさせられるという悪夢が繰り返されていた。
はっきり言って、サーブに失敗するような人間は何度やったところで同じなのである。
むしろ、一度失敗しているだけに余計にプレッシャーは高まり、最初のときよりも体はさらに固くなる。
もはや死体蹴りに等しい、敗者を痛めつけるだけのサディスティックなルールだったと言っていいだろう。これは別に私の実体験というわけではないが。
また、バレーボールの場合、各ポジションの責任が異常に大きいというところにも問題がある。
例えば、バスケットボールやサッカーであれば、チームに下手糞な生徒がいたとしても、他の上手い生徒がカバーに入ることで何とでもなる。
野球の場合はそれらの球技よりも各守備位置の責任は大きいが、特定のポジションを頻繁に狙って攻めることなど素人には不可能だから、下手な人間が守っていてもそこまで影響しない。
しかし、バレーボールでは、素人でも特定の場所を狙い撃ちすることが可能なのである。
結果、下手に空間が空いている分だけ、上手い人間がカバーすることもできず、運動音痴が守る場所が巨大な穴となり、チームは得点を奪われていくことになる。
バレーボールは「チームプレー」かもしれないが、それは真剣な気持ちでバレーボールという球技に身を投じた選手だけが持ちうるものだ。
所詮は体育の時間限定の一時的なチームに「連帯感」など生まれるはずもない。
失敗を続ける生徒は己を責め、周囲はその失敗を連発する生徒に対して(口には出さなくても)ストレスを感じている空気を醸し出す。
それらが悪循環となり、プレッシャーに押し潰された生徒は、再びミスを重ねていく。
私がそうだったということではないが、これが教育現場での現実である。
お分かりのように、バレーボールというものは「強者の、強者による、強者のための球技」であり、弱者のことなど一切考慮しない、新自由主義的で冷酷なスポーツなのだ。
こんな悪魔的な球技を学校教育に取り入れることを推進した者たちは、きっと傲慢で弱い者に目を向けることもない、最低最悪の人間だったのだろう。
関係した政治家や官僚、教育者達は地獄に落ちるべきだ。
別にバレーボールに対して個人的な恨みがあるわけではない。
自分で言うのもなんだが、私は弱者の目線に立つことができ、善良で、博愛主義的な人間だ。
バレーボールを強制されたか弱い子供たちの心情を想像して涙し、溢れんばかりの正義感から拙稿を書いたのであり、決して自分が運動音痴だったことによるルサンチマンが動機ではないことを、最後に明記しておきたい。
とにもかくにも、教育課程からバレーボールという球技は完全に撤廃すべきだろう。
バレーボールで苦しめられ続けている子供たちを、我々は一刻も早く救わねばならないのだから。