原作読んでてこの少し後くらいから「あ、切嗣をイカレた『悪役』として見れば良いんだ」と気がついてすっきり読めるようになりました。
自分は切嗣が嫌いでした。
しかし、それは自分が切嗣を「作中是である主人公」として見ていたからなんですね。
彼を狂気に囚われた悪党として見れば、彼のことも好きになれました。
まあ、外道ですね。彼のやり口は。
これは、彼が悲惨極まる戦場を渡り歩いてきたことに起因しているのでしょう。
しかも、「祖国」のような守るべきもの、属するものも持たなかった彼は、ただ地に足の着かない空虚な思想を抱いて彷徨っていたのも大きいのだと思います。
切嗣は「戦いの手段に正邪などない」「戦場に尊いものなどない」「戦場に希望なんてない。あるのは掛け値なしの絶望だけ」と言います。
とはいえ、我が日本国は(日本だけではもちろん無いですが)、「戦いの手段に正邪がある」という文化を持っています。
例えば先の大戦(大東亜戦争と書いておきましょう)で、祖国の為に、同胞の為に、家族の為に命がけで戦った英霊のその覚悟は「尊い」という価値観が今でも続いています(当然否定的な考えの方もいるでしょうけどね)。
また、英霊の方々にとっては、自身が守る祖国と子孫こそが「希望」であったことでしょう。
つまり、我々日本国民にとっては、切嗣の考え方は相容れぬものです。
おそらく切嗣にしても、祖国の為に戦うという「価値観」を持ち、祖国の為に戦い、戦いの手段に正邪があると考える人々と共に戦場にいれば、このような人間になることはなかったでしょうね。
しかし、そうではなかった。彼は孤独に、「手段を問わぬ」戦場を渡り歩き、結果生まれた「地獄そのもの」を体感してきてしまいました。
戦争がどこまでも悲惨であるのは事実ですが、切嗣はセイバーの言う「法と理念」の戦場ではなく、まさしく「手段に正邪」が存在しない地獄にいて、自身も「法と理念」を持たなかったわけですから、彼の見方は偏向していると言えるでしょう。
彼は日本人ではありますが、少なくとも日本人とは「断絶」しているんですよね。共有すべき「懐古の情」を持っていない。
祖国を持たず、空虚なまま育ち、彷徨った結果、今のような人間に成り果ててしまったわけです。
切嗣の言うように戦争において「手段」を選ばなければどうなるでしょうか。
例えば、アメリカは「戦争を早期に終結させた」として、空襲や原爆投下による民間人の大量殺戮を肯定しています。
アメリカはそうやって手段を選ばなかったおかげで戦争に勝利し、日本の国力を削ぎ、また原爆投下の人体実験によって核の脅威を諸国に示し、戦後の世界を主導することに成功しました。
手段を選ばなかったからこそ、アメリカはこれらの繁栄を得ることができた、ゆえに国益(利益)のためならば時として手段を選ばぬのが正解なのだ、と考えることもできるでしょう。
しかし、そうして手段を選ばなかったことで、アメリカには「目的の為ならば民間人の殺戮も肯定される」という価値観が根付いてしまった。それがアメリカの文化となってしまったわけです。
結果、今のアメリカという国家があるのです。
国家の目的は独立を守ることであり、国民の文明の繁栄はその手段です。
戦争に負ければ独立を失う。ならばただ戦争に勝てば良いかと言えばそうではない。
戦争には勝たねばなりません。しかし、もしその為に手段を選ばなければ、「手段を選ばない」という文化がその国に蔓延る結果を生み出します。
「邪」とされる手段を肯定する。それは、歴史の中で先人達によって紡がれてきた「道」、伝統や道徳を破壊することに他ならないのです。
伝統や道徳を喪失、先人達と断絶し、国民が「懐古の情」を持たなくなった国は、衰退し、滅亡へと近づいていくでしょう。
勝利の為に手段の正邪を問わぬというのは、結局のところ自身の首を絞めることにしかならないのです。
もっとも、切嗣という男はもとより祖国も懐古の情も持ってはいませんから、そんなことは気にもしないでしょうが。だからこそ「人の魂の変革を為し、争いを終わらせる」などという伝統を徹底的に破壊するような目的を抱けるのですしね。
聖杯によってその願いが成就すれば、伝統、道徳はおろか、国すらも必要ないとされる世界になるのでしょうから。
そういう意味で、自分のように「懐古の情」を持ち、道を外れたくないと思う人間にとっては、切嗣という男は哀れな出自で狂気に囚われてしまった危険人物であり、それを賛同するアイリスフィールや舞弥もまた狂った女達でしかありません。
それは歴史を改変しようと企てるセイバーも、というより多くのマスターやサーヴァント、魔術師そのものにしてもそうなのですが、まあ、それはまた別の機会にしておきます。
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