ネオ天草のジャンプ感想日記

ジャンプ感想を主に書いています。

クソったれ映画『天使にラブ・ソングを』感想

 こんな映画を賞賛してるようじゃ銀幕も終わりですよ。

天使にラブ・ソングを… [DVD]

【期待と裏切り】

 もちろん題名だけは知っていたし、パッケージも見た事があったので、聖歌をテーマにしてるんだろうな、くらいの認識は元々持っていたのだが、まさかあの黒人シスターが外部からやって来た単なる歌手だとは全く想像してなかったから、実際に見てみたら意表を突かれた。

 なるほど、神父の説教も聖歌も下手な教会が、外部の非信仰者の意見を偶然にも取り入れ立て直していくストーリーなのだという事は早い段階で了解できたし、その後の展開にもワクワクしていた。

 

 ……序盤の段階では。

 まさかこれ程の冒涜が描かれるとは、想像もしていなかったのである。

 

【歌唱力と曲】

 ウーピー・ゴールドバーグ演じる主人公は、信仰も持たぬまま周囲のシスター達を堕落した遊びへと誘い、あまつさえ伝統的な聖歌を軽視して、軽薄な現代歌を彼らに歌わせていく。

 

 主人公がシスター達に聖歌を指導するようになった理由は、彼女達の歌が下手過ぎて、信者が集まらなかった事にある。

 しかしながら、この作品の場合は、『歌が下手』という理由をいつの間にか『曲が悪い』とすり替えて、伝統的な聖歌を否定し、新しいオリジナルの聖歌へと変貌させていくわけだ。

 

 頭がおかしい。

 

 シスター達の歌唱力が低かったのなら、それを上達させれば聖歌を変える必要などないはずだ。

 にも関わらず、「歌が下手=曲が悪い」かのように誘導し、軽薄な(当時における)現代風の曲へと聖歌の内容までも変えてしまう。

 あまりにも卑怯ではないか。

 

【マクゴナガル先生】

 上記の卑劣なやり口は他にもある。

 マクゴナガル先生こと、修道院長の扱いだ。

 

 他のシスターが老若関係なく何故か主人公に惹かれていくご都合主義のストーリーの中で、唯一主人公に反発する役回り。

 言うなれば伝統的なカトリック教会の象徴と言えよう。

 

 そんな彼女は、主人公がもたらした現代風の聖歌にただ一人反発していた。

 

 よくあるこの対立構造に、この映画は最悪の手法を用いた。

 「話題のすり替え」である。

 

【伝統と慈善活動】

 主人公がやって来た事で、教会のシスターは貧しい地域に慈善活動を行うようになった。

 マクゴナガル先生はシスターの身を慮るあまり、外での活動を行ってこなかったのである。

 

 そして、その積極的な慈善活動は、マスコミにも取り上げられて、教会は有名になった。

 法王の視察に対しても、主人公デロリスが作った現代風の聖歌が使われる事が圧倒的多数で決められたわけだ。

 

 しかし、これは明らかにおかしい。

 外で活動した事でマスコミに取り上げられたからといって、新たな聖歌を肯定する理由にはならない。

 そもそも、あれ程に治安の悪い地域でシスターが犯罪に巻き込まれない保証もなく、デロリスの旗振りで外に出たシスターが無事だったのはあくまでも偶然でしかない。

 

 にも関わらず、こんな偶然で主人公の宗教活動が正義とされ、それとは全く無関係の聖歌においても全面的に肯定されているわけだ。

 

 最低最悪のやり口だ。

 「現代的な聖歌を肯定的に描きたい」という欲求を満たす為だけに、無関係な部分で旧来のシスターを毀損し、「型破り」シスターを持ち上げる。

 

 日本維新の会を持ち出すまでもなく、昔からある愚民を騙す為の典型的な政治的なパフォーマンスである。

 

【カジノ】

 挙句の果てが、ラストのカジノの場面。

 本来は主人公デロリスを助ける為に突入したのにも関わらず、途中でスロットに熱中していた老年のシスターがいた。

 どう考えても、「クズ」としか言いようがない人物である。

 そして、敬虔なシスターをこれ程のクズにしたのは、主人公なのである。

 

 主人公デロリスが助けられた後、シスターがカジノにハマった事についてマクゴナガル先生から言及があった。

 私としては当然、教会の秩序と良識をデトリスが乱した事について注意し、デトリスも反省する展開だと考えていたわけだ。

 

 しかし、マクゴナガル先生が言った言葉は、「ありがとう」。

 

 シスターを賭博中毒に変えた主人公を、今までは反対していたマクゴナガル先生までも賞賛するようになっていたのである。

 

【総評】

 常識的な組織にムチャクチャな言動の人物を送り込んで、何もかもブチ壊す。

 なるほど、日本で言う小泉やら竹中平蔵やら維新の会のような破壊的な「ノリ」を、アメリカ映画では90年代から既に賞賛していて、それに賞を取らせていた訳か。

 

 全く最低である。

 このような映画を持ち上げてるからこそ、現在のハリウッド映画もポリコレポリコレに支配されたつまらない作品を量産してる訳だ。 

 80~90年代の闇雲な「改革」思考こそが何もかもの癌なんだな。

 

 こんな気持ち悪い、偏った価値観の映画を推薦してる限り、ハリウッドにも日本映画にも未来は無いよ。

 

 余談ではあるが、今の私は愛国者故に耶蘇教を邪教としか考えていないものの、幼稚園の頃はカトリックに通っていた為に、伝統的なキリスト教を冒涜する人間はそれだけで評価が下がるんだよね。

 

 伝統こそ人を作り上げるもので、カトリックはその体現者ではあるから。

 その為、異教徒とはいえ、カトリックが安易に冒涜される事にについては、人一倍の忌避感があるわけだ。